2010年11月28日のツイート
@oakirb: 人類も今後、人間一人の単体での生死ではなく、人間社会の”人間複数体”としての生死を志向するのではないか?
@oakirb: その後生物は、単細胞より多細胞、細胞一個の生死でなく細胞が複数合わさりそれ全体での生死という形態のほうが結果的な”生死”には有利である結論に達し実現した。
@oakirb: これははるか昔、生物が単細胞であったときと同じ。
@oakirb: 人間はいま、”自分が死なずに、傷つかずに生きるためには”という”生存本能”で生きている。
@oakirb: 全然話は変わるが。
@oakirb: みんなでそれを探そうではないか!自分の才を!
@oakirb: ”ある”のはまちがいない、はっきりしている。そうすると、自分にはどういう才があるのか。楽しみにならないか?
@oakirb: 自分にも才があるのだ!
@oakirb: ”ない”とあきらめるかもしれないが、”ある”のであればあとはそれをどういうふうに活かす、”活性化”させればよいかを一生懸命考えればよい。
@oakirb: 元々”ない”と思っているのと、才は”ある”が活かす方法が明らかになっていないのだと思うのは、180℃異なる。
@oakirb: でも、”才”を持っている、あることはまちがいない。
@oakirb: だから、世の中に”すぐ”取り上げられ、それを活かしてくれる存在が現れてくれることはない。
@oakirb: 自分の才は、世に言われる”天才”ほど、はっきり、明らかなものではないかもしれない。
@oakirb: 自分が得意なこと、それはけっこう、他人にはできないことである。
@oakirb: それは、自分が思っているほど”些細”ではない。
@oakirb: ”自分が得意なこと”?そんなの些細なことだと、思う人がいるだろう。
@oakirb: いわゆる”自分が得意なこと”が”才”である。
@oakirb: 世間で言われているような、何かをすごいスピードで解いたり、運動がすごかったりということ”だけ”が”才”ではない。
@oakirb: また、才は、”大げさなもの”ではない。
@oakirb: 才は、自分自身が少しでも幸せに生きるために、使われれば十分だ。
@oakirb: そして、才は、いま世間が言っているような、いわゆる”天才”のような形で発露される必要はない。
@oakirb: 才は、みんなが持っている。
@oakirb: 実態はたとえそうであるとしても、”才”は万人が持っているということだけでも、従来の”才はごく一部の人が与えられているもの”という考え方とはまったく異なる。
@oakirb: その才が、どういう才であり、その才はどういう行動により活かされるものであるか、それが明らかにされるには自分自身だけでは無理があるし、明らかになったとしても、その後の適切な成り行きがなければ花開かない。
@oakirb: ”才”だけであるならば、すべての人間が持っている。
@oakirb: 言い換えると、世に言われる天才は、本当に幸いにも、才と生き方が整合したことにより生み出されたと言える。
@oakirb: ”才”と”生き方”が整合していないだけなのだ。
@oakirb: でも、凡人である私たちにも、”別の”天賦の才があるはずだ。
@oakirb: そのことは、天賦の才が違ったということで納得できる。
@oakirb: トップの天才たちにあこがれることがあっても、自分自身は同じことはできない。
@oakirb: 超一流、その道のトップがしのぎを削る、そういう状況はどの道、業界、世界でもある状況。でもそれはごくわずかの一握り。そこまで至れない私たちいわゆる”凡人”は、どういう心構えで日々生きるべきか。