ooidaakira’s blog

大井田 朗(おおいだあきら)です。メールはoakirbあっとマークgメールドットコムへお願いします。◆Twitterもやってます @oakirb、@amikiooakirb の2アカウント。

自分が自分自身を律すること(10)。

『自分が自分自身を律すること』について考えるうえで関係すると思われることを見つけた。


それは、
「苦労は売ってでもやめろ」(明石家さんまさんが言ったとされる。)
それと、この言葉についてふれているブログエントリーが下記。
「苦労は売ってでもやめろ」: 与論島クオリア
与論島クオリア』から下記引用。

「苦労は売ってでもやめろ」

 去年、『しまぬゆ』を読んだ時、島役人の記述を、「勝者の論理に盲目的に服従する奴隷の精神とは異質な敗者の論理を構築して昇華しようとしたのである」と解していることに強い異和感を覚え、それは敗者なのに勝者の思考に自らの思考を預けた屈服の論理に他ならないと考えました。そして必要なのは、敗者の論理なのではなく、「負けない論理」ではないかと書きました。

 ぼくはそこで、奄美の「負けない論理」をつくることは、『しまぬゆ』から受け取る課題だと書いたので、ずっとそのことは念頭を去らずにいます。奄美の「負けない論理」とは何だろう。

 ところで、「ほぼ日刊イトイ新聞」で2月に、「さんまシステム」と題したインタビュー記事が載ったことがあります。さんまシステムというのは、あの明石家さんまのことです。

 文脈は省きますが、彼はそこで、「苦労は売ってでもやめろ」と言うのです。

苦労は売ってでもやめろ

 ああ、と思いました。これって、負けない論理じゃないかって。ふつう、「苦労は買ってでもしろ」といいます。で、「苦労は売ってでもやめろ」というのは、それを全部ひっくり返しているわけです。苦労は売れ、苦労はするな、と。いつものあの口調で(たぶん)。でもさんまはそれをお笑いのネタとして言っているのではありません。読む限り、大真面目に、「苦労は売ってでもやめろ」と、そう言うのです。

 これは、反語的なのでもなくレトリックなのでもなく、言ってみれば、ことわざを温故知新で臨み現在化した、いまのことわざなんじゃないでしょうか。いまどきのハードさを乗り切るためのコトワザです。

 その心は、と書くのは野暮な気もするし、気の利いたことも書けそうにないのですが、「負けない論理」に近づけるようにしていえば、こんな風に思います。「苦労は買ってでもしろ」というのは、「苦労」は買わないとやってこないかのような錯覚を与えるけれど、そんなものじゃない。望もうが望むまいが向こうから勝手にやってくる。平気にやってくる。いくらでもやってくる。だから、「買ってでもしろ」と言わなくていい。むしろ、それは「売ってでもやめろ」なのだ。ひとつやふたつ売ったところで無くなるわけでもない。

 それに苦労は、苦労を経ると人性を豊かにする面を持っているけれど、それだけではない、そうは問屋が卸さない、豊かさを根こそぎにするかもしれないほど駄目にする面も持っています。人柄のにじみ出た優しさをかもし出す人を見て、「苦労したんだねえ」と言うことがあります。けれどそれは乗り越えた人に対して言う言葉です。その背後には、苦労したばっかりに、それが背負いきれない苦労だったばっかりに、笑顔をなくしたり生きる気力を無くす無数の例が控えているはずです。そんな苦労はしないほうがよかったのです。だから、「苦労は買ってでもしろ」というのは、人生を空想的に捉えている時に言えることに過ぎない。実際、生きてみれば、苦労は向こうから否応なしにこちらを捕まえてくる。売れるくらいの苦労は売るくらいにうっちゃって、売るわけにもいかない苦労に向き合うほかないのだ。

 この言い方は胸のすくような側面があって気持ちいい。それはきっと、「苦労は買ってでもしろ」の抑圧的な含みが抜かれているからだろう。むしろ、「苦労は売ってでもやめろ」というとき、「苦労は買ってでもしろ」を想起するから、それに対する対抗の言葉のようにある、それが胸のすく理由の一端をなしていそうです。

 奄美だってそうじゃないですか。奄美の二重の疎外だって、ぼくは「買ってでもしろ」とは露ほども思わない。むしろ、「売ってでもやめろ」ってそっちのほうに賛成です。

 と、ここまで書いて、与論にも、「若さるばんぬ難儀やほーうてぃんしり」という言葉のあるのを思い出します。この言葉を反芻してみて、ぼくはこの言葉に異議を唱えたいわないと感じられてきます。それはどうしてかなと考えると、「苦労は買ってでもしろ」は、弱者から弱者へ手渡されるとき、生きる知恵となっている。けれど、これが勝者から敗者へ、あるいは強者から弱者へ言われるとき、抑圧へと転化してしまう。そういうことではないでしょうか?

 とすると、さんまの言う、「苦労は売ってでもやめろ」という言葉は、「苦労は買ってでもしろ」が、強者や勝者の抑圧の言葉にならないための抗いなのかもしれません。

 こんなことをうつらうつら考えながら電車に乗っていたら、「すべての負けないハートたちへ」という言葉が目に飛び込んできました。これ、何のコピーだと思いますか?ある商品のコピーなんです。

すべての負けないハートたちへ

 カンロの「ピュレグミ」だそうです。TVCMもやっているようですが、ぼくは観たことありません。でも、「負けない論理」を思っていると、こんなコピーも助け舟のようにやってきます。負けるわけにいかない、負けちゃいけない。そう思いますよね。


 もうひとつ。聖火リレー妨害に対して、「すべきではない」とチベット人に呼びかけているダライ・ラマ14世の言葉も、「負けない論理」ではないでしょうか。